2017年07月31日

Amazon初登場

『JMPではじめる統計的問題解決入門』がAmazonに並びました.まだ最終原稿は手元にあるので何か不思議な感じです.これは本音の話なのですが,私が気にしていたのがAmazonのレビューです.低い評価をつける人がいても別にいいんです.例えば最近読んだ本の中で一番読んでよかった,國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』朝日出版社でさえ星一つをつける人がいるくらいです.しかも大学生の卒論レベルと手厳しいコメントもあります.大学生の卒論レベルではあそこまで文献を読み込まないと思うんですけど.着想があって構想を広げて論理展開しているのもよくわかるし,スピノザやカントは読む気になれないけれど,國分先生の本には引き込まれました.何よりも読んで理解できた哲学(とは言えないかもしれませんが)の本というのは人生体験としても貴重です.
こういう名著にも星一つをつける人がいるくらいなのです.統計関係の本でも,本書でも言及している西内啓(2013)『統計学が最強の学問である』ダイヤモンド社の本日現在のレビュー総数240に対して星一つが27(11%)で星五つが58(24%)です.書籍の価値と星の数の相関はどのように考えたらよいのでしょう?要約統計量として平均で十分なのか,それともメディアンなどの他の指標を考えるべきなのか.おそらく陪審員定理などを使って合理的に考えることはできそうです.
ちなみにこの西内さんの本は最近まで『統計学は...』と思ってました.前回の校正でこの間違いに気づき訂正しましたが,改めて「統計学が...」というのはすごいコピーですね.「統計学は」ならば最強クラスの学問は他にもいろいろあって統計学もそれらにひけをとらないぞというニュアンスになりますが,「統計学が」ですと統計学が一番強いことになってしまいます.コピーとはいえこれは言い過ぎですね.おそらくこのコピーに感ずるところで両極端の評価になっているのでしょう.実際この本にはなぜ物理や経済学を凌いで統計学が最強なのかは書かれていなかったので,少々期待外れでした.それでは統計学はどういう学問なのかというと,最強***学問であるというのが『JMPではじめる統計的問題解決入門』での答えです.***は伏字です.書籍がリリースされてから改めてこのブログで回答を書きますので,当ててみてください.
「統計的問題解決入門」の性格からおそらく評価(があれば)は割れると予想してます.ですから,評価の高低は良いとして,それよりも気になるのは散見される品位に欠けるレビューです.おそらく品位あるであろうJMPユーザーが読む本でさえ,某書のレビューでは酷いことも書かれていますね.わたしは何を言われても甘んじて受けようと覚悟していますけれど,精神的な平和のためにレビューは当面は見ないことにします.もちろん,どんなレビューであれしてくださったならばそれだけでも嬉しいです.

2017年07月29日

ソクラテスと大燈国師

このブログのタイトルは「統計的問題解決研究所」です.来月出版予定の「JMPではじめる統計的問題解決入門」のサポートブログですが,実は最近まで書籍名を勘違いしていました.「JMPではじめる統計的問題解決」とばかり思い込んで,後半の執筆では入門書ということを忘れて飛ばしすぎてしまったかもしれません.その意味でも,できる限りこのブログで入門者の皆さんのサポートをしていこうと思っています.
このブログのタイトルの下の説明文も修正しなければなりません.そういえば,このブログのデザインはいささか寂しかったのでイラストレーターの原山みりんさんにお願いしてロゴをつくってもらいました.原山さんには書籍の表紙や章扉のマンガを描いていただきました.(この本に登場するJMPくんについては後日書きます.)このお地蔵さんのようなロゴは哲学者ソクラテスをイメージして描いてもらったものです.本書の「あとがき」では有名なソクラテスの産婆の例えに言及しました.この他にもソクラテスは自分を「アブ」に例えたり,人に「シビエレイ」のようだと言われたことを肯定しています.アブの比喩も気に入っていてロゴをアブにしてもらおうとも思ったくらいです.
皆さんはソクラテスというとどのようなイメージがありますか.ソクラテスというと毒杯を仰いだ哲学者というイメージが強いかもしれません.東洋大学の創立者の井上円了は古今東西の聖賢として「孔子」「釈迦」「ソクラテス」「カント」の4人を四聖としたそうです.四聖というと一般には,「釈迦」「キリスト」「孔子」「ソクラテス」の4人を指すことが多いようです.いずれにせよソクラテスは聖人に列せられていますが,私にはソクラテスと孔子は聖人というのには違和感があります.論語で有名な孔子は儒教思想を体系化したという点では始祖と言ってもいいかもしれませんが,私には自分の言葉で語っているという迫力が欠けているように思えます.一方,ソクラテスの言葉はプラトンという代弁者を通じたものではありますが,実践に生きた哲学者です.
私には大燈国師として有名な宗峰妙超の生き様に重なります.大燈国師は大応,大燈,関山と引き継がれて中興の祖白隠に到る日本臨済宗の系譜の中心に聳える人物です.京都で乞食同然の暮らしで修行(乞食行と言います)すること20年,その当時を描いた白隠の絵は有名です.白隠記念館というブログで公開されています(このページの大灯国師2がそうです)ので一度ご覧になってください.(沼津に白隠記念館が建設されることを夢見てというこのブログには大いに賛同します.)この絵を見ればおわかりのように,ギョロリとした目玉が印象的でWikiにも峻烈無比の禅風とあるように大燈国師の生き様が伺えます.この絵を見るたびに私はなぜかソクラテスを思い出していました.
どうでもいいことですが,このブログのタイトルロゴを見てこれは何なのかと疑問に思う人もいるかと思いここに書いておきます.まだ校正が済んでいないので今週も雑記ですいませんが,今週はここらへんで.
posted by Tad at 13:11| Comment(0) | 雑記

2017年07月22日

ソフィーの選択(「選択の科学」の続き)

原稿でカットした内容を次回紹介すると書いておきながら,話を引き延ばして申し訳ないのですが,今回は「選択の科学」についての続きにします.早く書いておかないと忘れてしまうということがその理由です.おそらく現時点でこのブログを見ている人はいないはずですが,書籍がリリースされればこのブログに来てくださる方もいらっしゃるでしょう.その方々に過去に遡っていただくのも申し訳ないので「JMPではじめる統計的問題解決」の内容に関することは本書リリース後に書き始めることにしました.
というわけで「選択の科学」です.自宅にはTVがないので知りませんでしたが,NHKで取り上げられて人気があったそうです.TVで紹介されたりすると,どうしても製作者のバイアスの影響を受けてしまうので,何事もまずは自分で考えたいという主義が次第にTVから遠ざかっていった理由です.この意味では,著者の略歴や表紙などもできるだけ見ないようにして読み始めるようにしています.と思いつつも表紙だけは見ないわけにはいかないので,「選択の科学」のように著者の写真にひきこまれたりもしています.
表紙や本文のレイアウトが読者に与える印象は強いです.特に著者の見た目が良ければ注目も浴びます.ケリー・マクゴニガル(2012)『スタンフォードの自分を変える教室』大和書房,などが印象に残っています.先ほどAmazonで確認したら,中表紙のような地味な表紙なので,この著者の写真は帯だったのかと今更ながらに気づきました.出版社のサイトでは帯のついた写真が見れます.この本の英語版の表紙が
Kelly McGonigal(2013),The Willpower Instinct: How Self-Control Works, Why It Matters, and What You Can Do to Get More of Itでしたので日本語版との違いが際立っていました.
パラメータ最適化設計もある意味では科学的に選択をしていると言えるので,その重要性は常々考えていました.幾つかのヒントを得られたので,「選択の科学」は読んでよかった本でした.前半では長いこと疑問だったことの答えを見つけられました.それは,人が対処できる選択肢の数はその性質によって変わるという説です.これは先にお話ししたことの繰り返しになりますが,人が一度に扱える選択肢の数の上限は7と言われているわけですが,ロングテールではそうでもないと米国でのスーパーマーケットの体験から感じていました.この説では一つひとつの選択肢の重要性が高くない場合では,徹底的な検討をする必要はないので選択肢の多さをむしろ楽しめるというわけです.しかもその場合,専門知識が多すぎる選択肢へ対処する能力を飛躍的に向上させるということです.例えば私の場合,車に乗るとすればFRに限るので,FF車は真っ先に対象から外します.そうすると選択肢は激減してしまうのです.ある程度の車についての専門知識が選択の負荷を低減してくれるわけで,これは定石を知り尽くしたチェスの名人が次の一手を打つ場合と同じとのことです.
 後半には,統計的問題解決にとっても重要なことが書かれていました.一つは「ソフィーの選択」(ウィリアム・スタイロン(1991)『ソフィーの選択』新潮文庫)です.この有名な小説はご存知の方も多いと思います.(映画もありますが原作の邦訳はなんと絶版なんです.何か間違ってるような気がします.)ネタバレすべきではない小説なので詳細は書きませんが,「選択の科学」では ルイス・ハイド(2002)『ギフトーエロスの交易』法政大学出版局から引いた価値についての次の分類を紹介しています.それは絶対的価値(worth)と相対的価値(value)との分類です.前者が,自分が大切にしていて値段がつけられないものに対する(本来備わっている)metricであり,後者はあるものを他のものと比較することによって導き出せるmetric,ということです.(metricという言葉は私が勝手に使っています.)その分類にときとして私たちは対峙せざるをえないのです.例えば,人の命をworthとvalueのどちらかのmetricにより幾つかの選択肢の比較を余儀なくされる状況があるということです.
 私は今まで人生の問題も特性値の指標をうまくとればパラメータ最適化設計で解決できるのではないかと(自覚はしていませんでしたが)考えていた節がありましたが,それは間違いと気づきました.パラメータ最適化で扱えるのはあくまでも特性のmetricがvalueである時に限ります.それがworthである場合にはせいぜい参考にするくらいではないでしょうか.何事もできることとできないことを見極めることが大事です.とはいえ,worthをmetricとした場合の最適化については研究課題として今後深く考えてみたいと思います.
もう一つは「選択の代償」です.選択は痛みをともなうということです.「選択の科学」ではある事例で選択のための情報開示と選択権の有無で三つのシナリオ(情報なし,選択権なし)(情報あり,選択権なし)(情報あり,選択権あり)で実際の調査データをもとに考察しています.
私の事例指導のスタイルはクライアントに選択肢を与え,あるいは見つけさせて,その上で選択権は委譲するというやり方です.それはよくある事例コンサルテーションでのやらされ感を低減し,成功体験をより強く感じてもらうためです.とはいえ,この本を読んで人によっては不必要なストレスを与えていたのかもしれないと気づきました.ある意味自らも紋切り型のコンサルテーションの罠に陥っていたようです.必要な場合は選択権を奪うこともありかもしれません.このためには,やはりクライアントとの対話が重要であると思っています.

まだブログ書きの練習中ですので,まとまりのない文章をご容赦ください.それではまた.
タグ:books
posted by Tad at 16:25| Comment(0) | 雑記